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画像はすべて2010年11月16日撮影:福井県勝山市からの白山。
春は花
夏ほととぎす
秋は月
冬雪さえて
冷(すず)しかりけり
道元禅師
永平寺入口
永平寺は寛元二年(1244)、道元によって開かれた。
正治二年(1200)生まれの道元が、入宋求法(にっそうぐほう)を志し、明州に向けて日本を旅立ったのは貞応二年(1223)のことである。
道元は、臨済宗開祖・栄西の弟子明全(みょうぜん)に禅を学んでいたが、これまでの禅にあきたらず、宋に渡ったのだ。
明州慶元府(現在の寧波)において、道元は手続きのため港の船の中に三か月も留め置かれた。
軟禁されたわけではなく行動は比較的自由であったが、それでも本格的な留学生活ではなかった。
そんなある日、日本船が入港しているのを知り、一人の老僧が買い物にやってきた。
日本特産の干し椎茸を買いに来たのだ(ちなみに、今でも台湾では日本みやげに椎茸を買う人が多い)。
その人は中国禅宗五山のひとつ阿育王山の典座(てんぞ・炊事係)であった。
喜んだ道元は茶をたててもてなした。
その時のことが道元の「典座教訓(てんぞきょうくん)」という本に生き生きと書かれている。
道元「どうか船中にお泊り下さい。他にもいろいろおたずねしたいことがある」
老典座「それは無理です。私は明日大勢の食事を作らねばならない」
道元「阿育王山ほどの大寺ならば他にも炊事係はおられるでしょう」
老典座「これは私の弁道(修行)と心得ています。おろそかに出来ません」
道元「貴僧は大層なお年だが、そんな用は若い者に任せて、静かに座禅を組まれるとか、古人(師や先輩)の公案(言行録)を読んで研究なされればいいのに・・・・・・・」
ここで老僧は呵呵大笑した。
そして、ずばり言ったのである。
老僧「貴僧は弁道とはどういうことか、文字とはどういうものか、まったくわかっておられぬな」
そう言って、老僧は急いで帰っていった。
道元は衝撃を受けた。
日本では、そんなことを言う人間は、一人もいなかったからだ。
老僧は何を言ったのか。
ごく簡単に言ってしまえば、日常生活の様々な雑事、たとえば炊事ちか洗濯とか掃除とかも、すべて「修行」である、という思想である。
【「逆説の日本史」より】井沢元彦著
上記のことに、現代の日本人は驚かない。それは「禅」の思想が定着しているからで、「坐禅」の経験などなくても、「禅」の日本人に与えている影響は大きい。
それにしても「曹洞宗大本山永平寺」の伽藍は広大である。約10万坪の寺域を有し、その中に七堂伽藍がある。
この「永平寺」の参拝は、「吉祥閣(きちじょうかく)」という1971年に建設された鉄筋の近代的な建物から始まる。伝道部の勧化(かんき)室という大広間に通され、若い修行僧から「カメラで室内や風景は自由に撮ってもいいが、修行僧は絶対にはカメラを向けてはならない」とか「館内は左側通行」などというレクチャーを受ける。そして、参拝である。
この永平寺の伽藍は兵火や火災のために焼失し、一番古い建造物は上の画像の山門で、寛延二年(1749)に再建されたものである。
その伽藍は渡り廊下で結ばれていて、そのほとんどを参拝客は見ることができる。
今回は、修行僧の坐禅の時間だったらしく、修行僧のすがたを見ることは少なかったが、磨き込まれた廊下などには、その厳しい修行の一環を垣間見ることができた。
現在、永平寺は曹洞宗大本山である。しかし、曹洞宗には総本山がないし、宗祖もいない。曹洞宗には、もうひとつ大本山があって、「総持寺」である。その総持寺を開いたのは瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)であり、曹洞宗では道元を「高祖」、瑩山を「太祖」と呼ぶ。総持寺は、今は横浜市にあるが、もとは能登の輪島にあった(総持寺祖院)。しかし、明治時代大火に遭い、堂塔の多くを失ったのをキッカケで横浜に移った。ただ、残念ながら今回の彷徨では、「輪島」に行ったのに、総持寺祖院には思いが及ばずというか、気が付いた時には、後戻りするには無理なところにいたのだ。
ところで、曹洞宗には、何故「高祖」と「太祖」がいるのか。
それは、永平寺を開き曹洞宗の礎を築いたのは道元だが、出家が前提で、妻子も財産も捨てて座禅修行をするという厳しいものだった。
それを瑩山(1268-1325)は、在家でもよく、女性の参加も認めて曹洞宗を大衆的なものにしたのだ。その結果、現在は「寺院数日本一」なのである。
だから、明日の「坐禅会」の指導者・瑞光師は瑩山の流れにいるといってもいいだろう。
11月28日撮影
幾何楽堂坐禅会 12日(日)午前8時
どなたでも参加できます。
香料1,000円