2015年 07月 02日
滝尾道界隈Ⅺ もうひとつの滝尾道 |
早いもので、あっという間に半年が過ぎてしまいました。
世の中はギリシャのデフォルトやら、新幹線の放火騒ぎなどが起きてますが、これからは高速鉄道のセキュリティが必要になるのでしょうね。
さて、滝尾道には開山堂辺りを起点とする道と、もうひとつ二荒山神社と大猷院の間を行く滝尾道があります。 右側の赤い塀は二荒山神社のもの
今回はもう一つの滝尾道を歩きます。
上の画像から数十メートル上に「空烟(くうえん)地蔵」があります。
勝道上人が、男体山に登ろうとして道を探していた時、地蔵尊が現れて導いたといわれる場所。その八百年後、延宝年間(1675年頃)家光の忠臣、老中阿部豊後守忠秋の墓を家光の霊廟(大猷院)の一角に造った際、上人の伝えを聞いた阿部家が、石像と常夜灯を造立した。
忠秋の墓は、この地蔵と背中合わせの大猷院内にあるが、忠秋が空烟と号したので、空烟地蔵と呼ばれる。
【説明版による】 この空烟地蔵を過ぎると石畳の山道が続きます。 もう一つ引用、これは例によって「日光の故実と伝説」からです。
二荒山神社左側から行者堂道を登ると、右側の山腹に洞窟があって、清水が湧いている。これが薬師の霊水である。
昔は、ここに勝道上人作と称する薬師如来の石像を安置した堂が建っていて、その前に信者の籠り堂まであったが、今日では、ほとんど荒廃して跡型もなく、本尊の薬師如来まで一時は路傍にホオリ出されていた。
この清水を眼疾のものが眼に注ぐと、霊験たちまち現れて治ったというのである。
この清水は昭和の中頃まで二荒山神社の御供水の水源としていたが、したたり落ちる涓滴(けんてき)では水量が足らないので、近頃、さらに深く隧道を掘って多量の水を出している。
路傍にコロがっていた薬師如来は、その後輪王寺境内に移され、現在は護法堂の傍(相輪橖の附近)に安置されている。
行者というのは「役小角」のことですが・・・
役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝 - 大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。姓は君。 修験道の開祖とされている。 実在の人物だが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい。天川大弁財天や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承がある。【ウィキペディアより】
滝尾神社を含めたこの一帯は修験者の聖地であったことは間違いありません。
行者堂の左側から女峰山に向けての修験の道(現在は登山道)が伸びてます。 この行者堂から坂を下ると、開山堂から続く滝尾道と「大小べんきんぜいの碑」のところで合流します。
世の中はギリシャのデフォルトやら、新幹線の放火騒ぎなどが起きてますが、これからは高速鉄道のセキュリティが必要になるのでしょうね。
さて、滝尾道には開山堂辺りを起点とする道と、もうひとつ二荒山神社と大猷院の間を行く滝尾道があります。
今回はもう一つの滝尾道を歩きます。
上の画像から数十メートル上に「空烟(くうえん)地蔵」があります。
勝道上人が、男体山に登ろうとして道を探していた時、地蔵尊が現れて導いたといわれる場所。その八百年後、延宝年間(1675年頃)家光の忠臣、老中阿部豊後守忠秋の墓を家光の霊廟(大猷院)の一角に造った際、上人の伝えを聞いた阿部家が、石像と常夜灯を造立した。
忠秋の墓は、この地蔵と背中合わせの大猷院内にあるが、忠秋が空烟と号したので、空烟地蔵と呼ばれる。
【説明版による】
二荒山神社左側から行者堂道を登ると、右側の山腹に洞窟があって、清水が湧いている。これが薬師の霊水である。
昔は、ここに勝道上人作と称する薬師如来の石像を安置した堂が建っていて、その前に信者の籠り堂まであったが、今日では、ほとんど荒廃して跡型もなく、本尊の薬師如来まで一時は路傍にホオリ出されていた。
この清水を眼疾のものが眼に注ぐと、霊験たちまち現れて治ったというのである。
この清水は昭和の中頃まで二荒山神社の御供水の水源としていたが、したたり落ちる涓滴(けんてき)では水量が足らないので、近頃、さらに深く隧道を掘って多量の水を出している。
路傍にコロがっていた薬師如来は、その後輪王寺境内に移され、現在は護法堂の傍(相輪橖の附近)に安置されている。
この薬師の霊水の穴に耳を近づけてみたのですが、水の音は聞こえませんでした。
さて、その「コロがっていた薬師如来」は・・・・ありました!!
護法堂の脇の庭園に今でも残っています。 上の画像の赤い祠に注目。
お寺の方にあの石仏は何と呼ばれているのか聞くと、すかさず「目洗い薬師です」。 ビンゴ!!!目洗い薬師です!上記の引用としっかりと繋がりました。
2体あるうちの右側が「目洗い薬師」のようです。薬壺を持っています。
左の石仏はやはり打ち捨てられていたものをここに安置したものと考えられますが、詳細は今のところ不明。
薬師の霊水あたりから緩い傾斜の登り坂が続き、坂の頂上に見えてくるのが「行者堂」。
さて、その「コロがっていた薬師如来」は・・・・ありました!!
護法堂の脇の庭園に今でも残っています。
お寺の方にあの石仏は何と呼ばれているのか聞くと、すかさず「目洗い薬師です」。
2体あるうちの右側が「目洗い薬師」のようです。薬壺を持っています。
左の石仏はやはり打ち捨てられていたものをここに安置したものと考えられますが、詳細は今のところ不明。
役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝 - 大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。姓は君。 修験道の開祖とされている。 実在の人物だが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい。天川大弁財天や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承がある。【ウィキペディアより】
行者堂の左側から女峰山に向けての修験の道(現在は登山道)が伸びてます。
by nikko0427
| 2015-07-02 06:38
| 日光あれこれ