2014年 12月 09日
滝尾道界隈Ⅳ |
しかし、古い人工的な石組も数か所あり、史料や文献にも載っていない建物があったような気がします。
1612~1698(慶長17~元禄11)年。伊勢長島城主菅沼定芳の一族に生れ、はやくから徳川家光の側近に仕えて信任厚かった。
家光没後ただひとり大猷院廟定番を命じられて日光に移り、在住47年、在勤の目付とともに日光山の管理・庶政にあづかり、日光山を監護して幕府の信頼にこたえた。
1683(天和3)年従4位下にのぼり2000石を給せられたが、生涯独身で、誠忠廉直、公私の別を明らかにし、家光追慕の念深く、毎朝寅の刻(午前4時)に起き身を清めて大猷院に詣で、人々に感銘を与えた。
また日光の古跡や伝承を大切にし、私費をもって瀧尾神社に石鳥居を建て、家康の神馬碑や恩賜の愛馬焼加羅の碑なども建てた。寛文の水害・貞享の大火には地元の救済につくし、のちのちまで「梶さま」と慕われた。老中阿部忠秋と親交があり、相とともに信義をつくした。
1698年87歳で没した。徳川光圀寄進の霊牌が龍光院にあり、毎年供養が行われる。定良なき後幕府は日光奉行を置いた。(このサイトから引用)
前引用文中に、家康公の神馬の碑を建てた、とあります。
東照宮鎮座のとき、この馬も日光山に連れてきて家康公の墓を守らせ、以来14年間、墓守をしながら安楽に余生を送らせ、寛永七年(1630)に倒れます。それで家康公の墓の後にあたるこの地に埋葬されたのです。
馬の平均寿命が20年~25年と言われていますから、随分長寿を達成した神馬でもあったのです。
またも「日光の故実と伝説」からの引用。
(参道は)行者堂の方(二荒山神社方面・引用者註)から降りてくる参道と一緒になる。
ここから、いよいよ瀧尾神社の聖域に入るので、道の右側に「大小べんきんぜい」と彫った石碑をたてた。「これより内に入ったら大小便をしては相成らん」というのであるが珍しい制札、否、石碑である。
by nikko0427
| 2014-12-09 06:32
| 日光あれこれ