200年前の歩路句(ブログ)伊勢参り道中日記 9 |
とりあえず坂木宿を出立します。
坂木宿の名主坂田家
戸倉宿まで一里半で着くのですが、そこからまた寄り道です。
上戸倉宿 「腹の出た年輪の物語」さんより許可を得て転載。転載ページ
下戸倉宿、「下の酒屋」として知られる坂井家 「腹の出た年輪の物語」さんより許可を得て転載。転載ページ
たぶん「中程、左之方」と書いてあると思うのですが、「うば捨山(おば捨山という表記が正解かとも思うのですが、この日記には‥うば捨山‥と書いてあると思うのです)」に向かいます。
そして、これはちょっと遠回りだと思うのですが屋代宿を経て、「田毎の月」で知られる棚田を見に行きます。
というよりは、やはり芭蕉の句碑を見に行ったというのが正解でしょうか?
姨捨山の棚田2‥左奥が善光寺方面
もっとも、この時間帯・時期では「田毎の月」は見られませんね。ただ、名所としての棚田と、やはり芭蕉の句碑を見たかったんだと思います。
俤(おもかげ)や うばひとり泣く
月の友
この棚田の一画に「長楽寺」という寺が現在もあります。
この寺も、日記中で唯一判読可能な「十三景」の一つになっています。
長楽寺境内
明和六年(1769)建立となってます。
平松さんが見た句碑もこれなのでしょう。
「芭蕉翁面影塚」とあります。
この後、平松さんたちは篠ノ井宿追分を善光寺方面に向かいます。
「此の間に千曲川船渡し二十六文」と書いてあるような気がするのですが、GoogleMapで見てみると、現在の地形では渡しを使わなくても次の丹波島宿に行けそうなのですが・・・。
ここで、日記は「川中島と云える合戦場」に触れています。
現在は、八幡原史跡公園内に、上の画像のような上杉謙信と武田信玄の一騎打ち(三太刀七太刀)の銅像が建造され訪れる人たちの目を楽しませていますが、平松さんの時代にはそのようなものは有るはずもなく、頼山陽作の「題不識庵撃機山図」もまだ刊行されていなかったはずなので、知識として「川中島の戦い」がこのあたり(松代城下)で行われたという感慨を持ちつつ通り過ぎたのではないかと思うのです。
丹波島宿で休憩をした一行は、犀川を舟渡しで越え、いよいよ善光寺に近づきます。
丹波島犀川の渡し跡
「
腹の出た年輪の物語」さんより許可を得て転載。転載ページ
善光寺に着く直前に、日記は「征夷大将軍 源頼朝」に触れています。
調べてみると、善光寺門前に十念寺という寺があります。
ここのことを日記に書いているのでしょうか。
この日、善光寺に到着しました。