200年前の歩路句(ブログ)伊勢参り道中日記 5 |
この日は晴れて、道端には前日の雪が残っていたが、九ツ時(正午頃)には雪が融けた、とあるような気がします。
平松さん、また芭蕉句碑を見ます。
木崎宿の隣に境宿があり、そこの境稲荷神社に今でもこの句碑が残っているそうです。①
時鳥 招くや麦の むら尾花 (ほととぎす まねくやむぎの むらおばな)
残念ながら、この句碑は見られませんでした。この境稲荷の傍らを車で走り抜けたような気がするのですが・・・。
また、この日記には、木崎宿と柴宿のあいだにある「境宿」の記述はありませんが、境宿には、「織間本陣跡」があります。
時鳥我身ばかりに 降雨か 一茶
この句が、本陣跡の石碑の右隅に刻まれています。
寛政三年(1791年)四月十二日、小林一茶は江戸から信州へ行く途中、織間本陣の家主である俳人専車を訪ねたが不在で会うことができなかったので
− 時鳥我が身ばかりに降雨か −
の一句を残して立ち去ったことが一茶の帰郷日記に書きとめられている。(このサイトより)
芝宿は柴宿で、ここも平松さん誤記をしてます。
この柴宿から利根川を舟渡しで越え、渡し船の料金は二十文と書いてあるような・・・・。②
五料宿で休憩をするのですが、「高砂屋」と書いてあります。③
文化11年(1814年)、五料宿の茶屋「高砂屋」の主人高橋光賢は倉賀野に常夜灯と道標を建立した。(このサイトより)
平松さんが休憩したのは、この「高砂屋」だったのでしょうか。
そして、気になるのが画像の部分。
五料宿と玉村宿の間に「接女・・・」とあるような・・・・。
接待をする女性がいたという意味でしょうか?わざわざ小さな文字にしているのが、妄想を掻き立てます(笑)。
玉村宿あたり
玉村宿を過ぎると例幣使街道の(日光方面から見ると)終着点の倉賀野に着きます。④
ここが、倉賀野追分ですが、矢印の常夜燈と道標が五料宿の高砂屋が建立したといわれているものです。
左・日光例幣使街道 右・中山道
常夜燈の後ろにあるのは、「閻魔堂」です。
この日は倉賀野に宿をとります。