続 会津① 土津神社 |
会津については、以前、私なりに調べてこのブログにUPし、また、違うサイトを立ち上げて纏めてみたことがある。
その後も、徳一の慧日寺や勝常寺、まだブログにはUPしていない会津を経巡り歩くことが多いのですが、今年は会津若松には行かないぞ!(キッパリ)
なぜなら、今年はこれのおかげで、今までにない混雑が予想されるからで、けっして会津若松が嫌いなわけではありません。
でも、会津に人が戻ってくるのは喜ばしい限りで、御同慶の至りでもあります。
3.11のあとの6月、会津若松を訪れた時、鶴ヶ城の駐車場には、ほとんど車がなかったことを思い出します。
ところで、「土津神社」・・・読めますか?
知らない人は絶対に読めません。
はにつじんじゃ・・・と読みます。
この「土津神社」は、会津松平家始祖保科正之が祀られている神社であります。
そして、この正之公の残した家訓(かきん)が、幕末の会津を悲劇とも云える過酷な運命に導いたとも言えます。
土津神社拝殿
保科正之・・・幼名 幸松(こうまつ)
父親は二代将軍・秀忠。
母親はお静という名だったらしい。
それも、たった一度の秀忠の浮気によって出来たのが正之であります。
ヒステリックで嫉妬深いのお江の方(この方も大河ドラマになりましたね…見てなかったけど)の目を盗んで、多分、数度の逢瀬の結果、幸松は生まれてきたのです。
その後、幸松は武田信玄の娘・見性院にもらわれていきます。これは、刺客さえ放ちかけないお江から、幸松を守るためでしょう。
そして、七歳の時、高遠藩二万五千石の藩主保科正光の養子になります。そして、寛永八年(1531)正光の後継者となりますが、三代将軍家光は異母弟・正之をことのほか愛し、寛永十三年(1636)、出羽山県藩二十万石を与えます。
寛永二十年(1643)、陸奥会津藩二十三万石の藩主となります。
慶安四年(1651)、家光は死に臨んで、正之を枕頭に呼び「宗家を頼みおく」と言い残します。
これに感銘した正之は寛文八年に「会津家訓十五箇条」を定めます。
【第一条】 大君之儀 一心大切可存忠勤 不可以列国之例自処 焉若懐二心則非我子孫 面々決而不可従
他藩がどうあっても、会津藩は将軍家に忠義を尽くせ。もし、将軍家に対し二心を抱けば、それは我が子孫ではない。皆、それには従うな
この家訓(かきん)が、会津の運命を定めたと言っていいでしょう。
寛文十二年、三田藩邸で死去。享年61歳。生前から卜部家神道を学び、神式で祀られます。
霊社号は土津霊神。
土津神社の境内にある案内板によれば「日光東照宮」と見紛うばかりの社殿だったらしいのですが、戊辰戦争で戦火に遭い焼失。現在の社殿は、明治十三年(1880)に再建されたということです。
その、社殿の裏に参道があります。
これが、結構長い参道で、上りきったところにあるのが、正之公の墓所であります。
先日、さきたま古墳群に行ってきましたが、あの丸墓山古墳のような円墳の形をしております。
そして、この墓所には・・・・・埋蔵金伝説もあるそうで・・・・・
そうだ、冒頭の画像ですが、これは「亀石」と呼ばれるもので、山崎闇斎の撰文で正之の治績を刻んだ高さ7.3mの土津霊神之碑。
この石碑を、最初南向きに置いたら猪苗代湖に這い出してしまったので、今度は北向きに置いたところ二度と這い出さなくなったという伝説があります。
土津神社 福島県耶麻郡猪苗代町字見祢山1
一度訪れてみては・・・・。
それにしても、会津若松の鶴ヶ城界隈は賑わっていると推察しますが、この土津神社にも人が来ているのでしょうか。