神橋界隈 |
右側にみえるのは「深沙大王堂」である。
とりあえず「日光の故実と伝説」からの記述を読んでみる。
今から千二百年前のこと、勝道上人が日光山を開こうとして、十人の弟子とともに古峰原(こぶがはら)から山伝いに鳴虫山(なきむしやま)に出で、精進岳まで来ると谷深く、流れ急で、橋がなくて川を越せない。当時修行者はこんな処に出逢うと、必ず護摩を焚き経を読んで神仏の加護(たすけ)を求めた。上人一行は直ちに、その護摩を焚いた。すると、不思議にも雲の中から一人の怪神(けしん)が現れた。赤と黒のとりまざった衣を着、頸に髑髏をかけ、左手を腰につけ、右手に高く青と赤の二疋(にひき)の蛇を捧げ、おそろしい姿をしていた。怪神は大声にて
「われは深沙大王である。昔、玄奘三蔵が経文を取りに印度に行った時、山中で危難に逢ったので助けてやったことのある神である。ここでも汝が同じような難儀に逢い、救いを求めているから助けてつかわそう」
と、いって二疋の蛇を放った。すると、蛇は下りて来て両岸から、からみ合うて橋となった。しかし、背中の鱗がキラキラ光っていて、気持ち悪く、上人一行は容易に渡れない。そのうちに、蛇の背中に山菅(やますげ)が生えて小道が出来た。上人一行は大王の助けと、喜んで橋を渡り、対岸に着き、「やれ有り難や」と降り返って見ると、二蛇は怪神の手に戻り、大王は雲に乗って空高く消えてしまった。
それから上人は北岸に四本龍寺を建て此処を住庵として五十余年の歳月を費やして日光山を開き、蛇橋の処には丸太の橋を架け「山菅の橋」または「山菅の蛇橋」とも呼んだ。時は奈良朝の末で神護景雲元年(767)の事であった。
星野理一郎「日光の故実と伝説」
この「深沙大王」を祀った「深沙大王堂」が右側の建物で、昔は朱色の柵だったものが、現在は石の柵になっている。
因みに「深沙大王」が祀られているのは、ここ日光だけではない。有名なところでは、蕎麦でもお馴染みの東京都調布市の「深大寺」がそうである。「深大」という寺名も「深沙大王」からとられたものだろう。
左にあって上のほうに伸びている坂が「長坂」である。
多少の違いがあってもこの辺りの雰囲気は現在と変わりはない。
深沙大王堂側から撮った神橋である。
明治35年の大洪水で、この神橋も跡形もなく押し流されてしまったが、その後の工事で道幅が拡張されたのだろう、歩道部分が広くなっている。
神橋の傍らに架かる橋、つまり車や人が常時渡る橋を「仮橋」(日光橋)というが、現在は昔に比べて右に移動している。
それから、仮橋を渡りきったところ、本宮坂の下に御番所があり、その建物が昔の写真には写りこんでいるが、もちろん、今は無い。
明治四十三年(1910)に日光軌道という路面電車が完成し、その電車はこの神橋の傍を通った。
その「日光軌道」の鉄橋は湾曲しながら、ほぼ昔の仮橋と同じところで大谷川を跨いでいた。
その日光軌道は、昭和四十三年(1968)2月に廃線になるのだが、この神橋の傍らに、その形跡がかすかに残っている。
シーズンがピークになると、ラジオの交通情報などで「神橋付近から3キロの渋滞」などと伝えられるのだが、全体的な雰囲気はそれほど変わっていない。