日光08’ 春爛漫 |
ヤシオツツジ。
今日(18日)は、日光地方、朝から大雨である。
しかし、ここに来て一挙に春めいてきた。まず、カタクリ、ヤシオツツジが開花し、境内のサクラも色付いた。
そして、昨日は弥生祭の最終日、今日の雨を予感させる小雨の中で、しかし、賑やかに行なわれていた。
さて、この弥生祭について気になっていたのが、ある方からの質問
《家体》の語源の由来も知りたい。
各戸の二荒山神社の神様を、二荒山神社に集結させる理由
この2つが質問の大筋だと思うが、「家体」という言葉自体歴史的には新しいものだと思っている。というのは、昭和35年に発行された星野理一郎著「日光の故実と伝説」の弥生祭の項にも「家体」という単語は見当たらず、すべて「屋台」と表記されている。そして 昭和54年発行の「日光市史」にも「家体」の文字は見当たらずやはり「屋台」である。
これは想像だが、他の土地の祭の「屋台」との差別化を図るために、時として使われていた「家体」を日光だけの名称にしたのではないだろうか?どうもそんな気がしてならない。
「各戸の二荒山神社の神様を、二荒山神社に集結させる理由?」
この「家体献備」というのは、原形が江戸時代に出来、元禄十四年(1701)に
鉢石町の若者三、四十人が、山伏や巡礼などの装束で、みこしの渡御に従った
のが最初だといわれ、人形浄瑠璃や踊りが登場し、その後狂言を演じることもあったようだが、神様が「家体」に乗るのではなく、やはり神様は本祭の神輿(みこし)にあるのだろうと思う。だから、「家体」はあくまでも各町内が「奉納」のために出すものなのです。
この「家体」という表記がいつ始まったかは、もう少し土地の古老などに聞いてみます。
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※今日(18日)、図書館に行った時、素晴らしい本を見つけました。
「車輪付き 花屋台の誕生」吉新諒次著(1988年発行)
この中にショッキングな内容が書かれていた。
まず最初に「やたい」の文字について・・・・。最近の新聞や雑誌などでは「家体」と書いている。これは間違いだと、飯田真氏(日光二荒山神社権禰宜・郷土史家)は、はっきりいっている。同氏の説明は次の通り。
「やたい」とは、A神社からB神社、または、神社から氏子の一定の町内(会所)へ神様が、おでかけなられたりする巡行の際、必要となる使用具の一種で、神輿と大体同じものである。神様のおられる所が社=屋代(やしろ)=であることを考えると「屋代」であり、屋代は「やたい」と読み、そのやたいが「屋台」になった。家体は、豚がおる小舎の意味で「屋台」との間には、雲泥の差がある。柳田国男氏、折口信夫氏も「屋台」を用いている。
ということは、この著書が発行されたのは1988年、ちょうど20年前である。「最近の新聞や雑誌などでは・・・」と書かれているということはその頃から「家体」が正式名称のように扱われてきたのだろう。しかも、氏はそれが間違いだと指摘している。
来年から「屋台」に戻しますか?二荒山神社様。それとも「家体」が絶対に正しいという根拠を説明できる方がいるのだろうか?
このエントリーを書き始めたとき、こういう展開になるとは思ってませんでした。
というわけで(?)、日光は春爛漫春の嵐なのです。今日の天気のように・・・。