西沢金山 |
修験者は山深くに分け入り、修行の傍ら薬草や温泉そして鉱物の発見に関与することが多かったに違いない。
弘化年間(1844~1847)、高野山役僧(これは間違いなく修験者の一派であろう)の意見によって鴻野伝右衛門という人物が各地の探鉱をし、その結果発見されたのが「西沢金山」だといわれていた。
しかし、日光四本龍寺(輪王寺)金剛堂に弘化二年(1845)五月と記されたの鉱山繁栄祈願の護摩札が発見されたことから、鴻野伝右衛門以前から、採鉱が行われていたことが判明した。
四本龍寺も金剛堂も護摩札もすべて修験そのものと言っていい。
明治二十六年(1893)塩谷郡川俣村の村民17人が協同して、古老の言い伝えのある西沢金山の探鉱を行った。ここは、現在、日光市栗山村川俣である。
太郎山の裏側、鬼怒川上流の一支流・門森沢(かどもりざわ)の水源1500メートルの高地である。
この17人は鉱山を発見し、17人の共同名儀で採鉱を出願した。これが許可されると、高橋源三郎がこの権利を譲り受けた。
ここまでは「日光市史」をもとに書いているのだが、この17人は自ら採鉱し精錬をする費用やどれだけの鉱脈があるのかというリスクを回避するために採鉱権を譲り渡してしまったのだろうか?今となっては良く判らない。
ところで、この高橋源三郎は、万延元年(1860)日光で質屋を営む旧家に生まれ、33歳の時にこの金山とかかわるようになる。
最初は有望な鉱脈が見つからず苦労を重ねるが、明治二十九年(1896)、ようやく豊富な鉱脈を発見し、所有地を下野銀行に抵当に入れ、小規模な精錬所を作った。
八月、金の地金を持って、以前から面識のあった勝安芳(海舟)のもとを訪れた。勝海舟は日光に別荘を持っており(現在の小杉放菴記念日光美術館の近く)、そのことから面識があったのだろうと推察できる。
勝は「鉛を持ってきたのだろう」と怒鳴りつけたが、造幣局に預けるように指示した。1週間後、金の地金は金貨1500円~1600円となって返ってきた。
その後、明治三十五年(1902)の暴風雨の被害(坑夫14名行方不明)や資金の調達に苦しむことになるが、明治三十九年(1906)には株式会社としての再スタートとなった。社名は西沢金山探鉱株式会社である。
高橋は会社成立とともに監督として探鉱事務を担当し、明治四十一年(1908)には同社取締役に就任する。
明治四十一年、鉱脈の一つ旭坑で、大きな富鉱帯に遭遇したことから、初めて利益が計上され発展していった。
大正四年(1915)、西沢金山探鉱株式会社は株主45名、従業員は所員50名、労働者626名、家族を含めると1300余名とされた。
日光市街からだと、いろは坂を上り、戦場ヶ原で光徳方面に右折し光徳牧場を左に見て直進し山王峠に入り治山記念碑を通り過ぎてしばらく行くと西沢を渡る橋がある。その手前一帯が西沢金山の跡なのだが今ではその面影すらない。この場所に、従業員の住居や、学校、病院、選鉱所、精錬所が立ち並んでいたのだ。今は樹木に覆われた場所に、冒頭の画像の風景があったのだ。
この金山は昭和の初期に閉山となる。
・・・と、ここまでは過去の話であるが、過去形で終らせようとしないオヤジもいる。
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イカン、イカン・・引き込まれようとしている(笑)。