光栄坊Ⅱ |
儒教というものは日本にしっかりと根付くことはなかったけれど、徳川幕府は儒教を国学に選び、日光東照宮は儒教のミュージアムだと私は思っている。
そして、江戸時代後期から昭和20年までは朱子学的イデオロギーがこの国を覆い尽くしたと言っていいと思う。
明治維新という革命もまたこの朱子学的イデオロギーの元に行われた。そして、これほど流血の少ない革命と言われる戊辰戦争でも、無血革命というわけにはいかず、多くの血が流れた。
この日光近辺でも、戦闘があり、日光山の境内での流血は光栄坊での土佐藩士による大鳥兵の虐殺が最たるものだった。
前にこの光栄坊を書いたとき、日本人の心情として犠牲になった大鳥兵を誰かが葬り、その墓がどこかに存在するのではという儚い希望を持っていたのだが、これはどうやら無さそうなのである。
それは・・・儒教の毒の影響なのだ。このことは井沢元彦氏の「逆説の日本史 13 江戸文化と鎖国の謎」を読むことで知った。
咸臨丸という船がある。
勝海舟を艦長として、最初に太平洋を横断した記念すべき船である。この船の最期は悲惨だった。幕府海軍に編入され官軍艦隊と戦ったが、静岡県の焼津沖で撃沈され、多くの将兵が戦死し、その遺体が岸に打ち上げられた。
だが、官軍はこの幕兵の遺体を一切葬ってはならないという命令をだした。なぜなら当時の官軍の公式イデオロギーは朱子学すなわち儒教であり、その立場から見れば幕兵は賊軍であり「埋葬しても慰霊してもいけない」存在だったからである。つまり、官軍は遺体を野ざらしにしろと命令したわけだ。
井沢氏は、この後、これらの遺体を清水の次郎長こと山本長五郎が官軍の処罰覚悟で埋葬したエピソードを書いている。そして、会津の白虎隊の少年たちの遺体も「野ざらし」にされたことも書いている。
そのことから考えてみると、光栄坊で死んだ大鳥兵も埋葬されることはなかっただろう。そのことに対する鬱憤が5月13日の原因不明の炎上に結び付いたのかもしれない。
日光には、次郎長はいなかった。