勝海舟「氷川清話」と日光 |
勝海舟の談話録「氷川清話」というのをご存知の方は沢山いるだろう。読んだという方も多いと思う。
歴史などに興味を持ちながら、まだ読んでいないという人には、これは必読の一冊であると申し上げておく。
おれが海舟という号をつけたのは、佐久間象山の書いた『海舟書屋』という額がよくできていたから、それで思いついたのだ。しかし、海舟とは、もと、だれの号だか知らないのだ。安芳(やすよし)というのは安房守(あわのかみ)の安房と同音だから改めたのよ。
・・・・「氷川清話」より
という出だしで始まり、小気味いい人物評と政治談議もあって、現在の政治家にも聞かせたいものも数多い。
自己を改革すること
○行政改革ということは、よく気をつけないと弱いものいじめになるよ。おれの知ってる小役人の中にも、これまで、ずいぶんひどい目にあったものもある。
○全体、改革ということは、公平でなくてはいけない。そして大きなものから始めて、小さいものを後にするがよいよ。言いかえれば、改革者が一番に自分を改革するのさ。
そして、この海舟と日光との関わりだが・・・・海舟は日光に滞在することが多かったらしく、海舟の書が市内に数多く残っている。そして、現在は境内の西側の門前町になっている安川町という町名は海舟が命名した。
勝安芳の「安」と徳川の「川」を選んで「安川町」である。
氷川清話にも日光が出てくる。
おれは一体、日本の名勝や絶景は嫌いだ。皆規模が小さくてよくない。試みにシナに行って揚子江に臨むと、実に大海のように思われる。また、米国に行って金門〔湾〕にはいっても気分が清々する。
・・・・・・中略・・・・・
しかし日光はやや規模が大きいから、欧米の土地を踏んで来た人に見せても、けっして恥ずかしくない。将来きっと繁昌するだろうよ。土地の人も、繁昌すれば火事の恐れがあると思って、先年数万坪の公園を作ったが、石碑は、その公園のまん中にあるのだ。字も文も皆おれの手際だ。字体は竹添〔井々〕などが調べてくれたが、書き馴れぬ字だから、なかなか骨が折れたよ。石は石巻の産だが、こんな大きな石はけっして他にはないそうだ。特別の汽車で送ったのだが、建立までには確かに7千人も人夫を使ったであろうよ。人の力も集めると大したものさ。(かくて碑面の石摺を示さる。その大きさは十畳の座敷にあふる)
この文章に書かれている「石碑」は、保晃会碑である。
保晃会というのは、明治になり徳川幕府の保護を離れた日光の社寺の修繕・保存を目的とした団体で初代会長には松平容保が就いた。
その保晃会を顕彰する石碑を勝海舟が手掛け、そして「氷川清話」にもその消息が語られていたのだ。
現在は「浩養園」と呼ばれるこの公園は防火帯として作られたのだ。
そして、ここからはお暇な人だけお付き合いください。この石碑にはなにが書かれているか・・・・長いですよ。
保晃会碑
篆額 大勲位能久親王
我国談山水之奇宮殿之美者莫弗首屈指日光焉蓋山水待宮殿之美而倍顕宮殿因山水之奇而増輝二者得兼幾希矣按神護景雲年間勝道上人崇信二荒山神霊挺身冒険履巉厳披蒙茸創建祠宇弘安四年当胡元寇鎮西也国家祈其冥護事平特加崇敬当時社寺領広袤十数里里坊舎数百所其盛況可想矣元亀天正之際天下大乱社寺領概為隣近諸豪所掠奪堂宇亦朽敗無敢顧者元和偃武之後東照宮鎮座屹然為国家霊域蓋天海僧正与有力焉後建大猷廟一山規模随而拡張比之往時爰翅霄壌乃宮殿之美与山水之奇並称而為天下之偉観決非溢美也王政維新世態一変祠宇坊舎一任荒廃而無任其労者於是苟浴神徳者及講古今美術者不忍袖手傍観焦心苦慮欲全其旧観拮据鞅掌遂至明治十有二年得就其緒是保晃之会所由設也是会一唱海内響応欲献資以裨工者接踵至延及支那朝鮮欧米各国来観者不啻嗟称不措往々有助資以謀其不堕者是雖固由朝恩之優渥与神徳之赫隆而非大方会員至誠之所貫徹則安得至此哉宜乎不出一紀而成功之基礎業巳確然可見矣由是観之是会也日昌而月熾名山霊域得保之無窮者復何疑之有近日会員欲刻石以伝之後請余一言余嘉其挙乃略叙梗概云爾
明治廿五年十一月
勝安芳撰并書 井亀泉
あ~疲れた・・・もっと疲れることにはPCに入ってない文字がある。最初に出てくる「得」の字は実際には左側のギョウニンベンではなくサンズイなのだ。
もっと愕然としたのは、最後の最後、井亀泉のあとに一文字あるのだが、これが出てこない。どういう文字かというと錐という字の隹の下に乃がつく字なのだが、これが無い。
たぶん、「この文字を彫った」という意味だろうが・・・最後の最後になって・・・
ところで、この文の意訳ですが・・・
仕方ない・・・やりますか・・・
我が国の山水の奇、宮殿の美を談ずる者は、首(はじめ)に指を日光に屈せざるなし。蓋(けだ)し、山水は宮殿の美を待ちて顕を倍(ま)し、宮殿は山水の奇に因って輝きを増す。二者の得(この字がサンズイ)、かぬるは幾(ほとん)ど希(ま)れなり。按ずるに、神護景雲年間、勝道上人、二荒山の神霊を崇神し、身を挺して険を冒し、巉厳(ざんげん)を履(ふ)み、蒙茸(もうじょう)を披(ひら)き、祠宇を創建す。弘安四年、胡元の鎮西を寇するに当り、国家其の冥護を祈る。事平ぎて特に崇敬を加ふ。当時社寺は広袤(こうぼう)十数里を領し、坊舎は数百所、其の盛況想ふべし。元亀天正の際、天下大いに乱れ、社寺の領、概ね近隣の諸豪の椋奪する所となり、堂宇亦た朽敗して敢えて顧みる者無し。元和偃武の後、東照宮鎮座し、屹然、国家の霊域たり。蓋し、天海僧正与(あずか)って力有り。後に大猷廟を建て、一山の規模随って拡張し、之を往時に比するに、爰(なん)ぞ翅(ただ)に霄壌(しょうじょう)たらん。乃(すなわ)ち宮殿の美と山水の奇と並び称されて天下の偉観たり。決して美を溢(おご)るに非ざるなり。王政維新、世態一変し、祠宇坊舎、一として荒廃に任せて、其の労をこれに任せるもの無し。苟(いやし)くも、神徳に浴する者及び古今の美術を講ずる者は、袖手傍観するに忍びず。焦心苦慮、其の旧観を全からんと欲し拮据鞅掌(きっきょおうしょう)遂に明治十有二年に至りて、其の緒に就くを得たり、これ保晃の会の由って設くる所なり。是の会一たび唱ふれば、海内響応し、資を献じて以て工を裨(たす)けんと欲する者は踵を接して至り、延(ひ)いては支那、朝鮮、欧米諸国に及ぶ。来観する者の啻(ただ)の嗟称措かざるのみならず、往々助資有りて、以て其の堕(こぼ)たざらんことを謀る者は、是れ固より朝恩の優渥なると、神徳の赫隆(かくりゅう)なるとに由ると雖も、而して大方会員の至誠の貫徹する所に非ざれば、安(いずく)んぞ此に至るを得んや。宜(むべ)なるかな、一紀を出でずして功成り、之が基礎の業巳(すで)に確然たるを見る可きなり。是に由って之を観れば、是の会や日に昌(さか)んに月に熾(さか)んに、名城霊域之を無窮に保つを得んこと、復(ま)た何ぞ之を疑はん。近日会員有りて、石に刻みて之を後に伝えんと欲し、余に一言を請ふ。余、その挙を嘉(よみ)し、乃(すなわ)ち梗概を略叙して爾か云ふ。
明治二十五年十一月
勝安芳撰并(なら)びに書 井亀泉○す
日光市史より
あ~シンド・・・