光栄坊 |
日光の山内地区というのは閑静な住宅地で輪王寺十五ヶ院もこの地区の中にある。そして、ここに住んでみたいと思う人も少なくない。
しかし、光栄坊跡地の一角だけは資材置き場のようになっていて、荒れ果てている。
慶応四年(1868)、幕府の歩兵奉行・大鳥圭介以下二千人の旧幕府兵は日光を占拠した。しかし、弾薬や食糧が足りず会津に退いて態勢を立て直そうと六方沢越えで日光を脱出した。その日光に進攻したのが、板垣退助率いる土佐藩隊である。
大鳥軍が日光を脱出したのが四月二十九日。その翌日閏四月一日の午前十時頃には、土佐藩隊は神橋の辺りに集結した。その土佐藩隊を出迎えたのは、日光奉行所吟味役大塚誠太夫、塚田東作らでその中には八王子千人隊の頭・石坂弥次右衛門もいた。
土佐藩隊の軍監谷守部は、後年、この時の様子を「日光同心、恭しく出て迎う。且つ先に八王子にて面会せる千人頭等来迎、賊徒(大鳥軍)押し切り、やむを得ず只今に至る。申訳蝶々聴くに堪えず」(『東征私記』)と勝者の感想を述べている。
「先に八王子にて面会せる千人頭」とは八王子千人隊の頭である石坂弥次右衛門のことである。
【明治維新と日光】柴田宜久著
そして、神橋から近い本宮別所で両者の会談が持たれた。
本宮は、太郎山を祭神とする神社である。その別所には前日に野口十文字の関門付近において、谷守部に日光への進軍の猶予を嘆願した日光山の桜本院道純と安居院慈立もいて、日光奉行所の吟味役らとともに応接した。
本宮別所での会談のなかで、桜本院道純と安居院慈立は、「昨日、瀬川での話を大鳥圭介に伝えて説得したところ、大鳥は了解し、昨夜、六方越えで日光山を退去した。いま山内には官軍に手向するものは一人もいない。しかし、大鳥軍の負傷者は二百人もおり、いまだに六,七人が取り残されている。ご慈悲であるので、これらの者を見逃して欲しい」と嘆願した。ところが、土佐藩隊は、賊徒征討は「朝命」であるとして、速やかに賊兵がいる場所への案内を強要した。奉行所吟味役の大塚誠太夫と塚田東作は、大鳥軍の負傷兵が養生していた光栄坊へ案内した。
【引用前掲書】
谷守部は坂本龍馬に傾倒し、龍馬が前年殺されるとその犯人を生涯をかけて探し出す、と言ったほどだったが、流山で近藤勇が捕縛されるとその処刑を主張してやまなかった人物でもある。どうやら、龍馬暗殺の犯人は新撰組だと思っていたらしい。
1911年75歳まで生きるが、伊藤博文内閣の初代農商務相にまで上りつめる。
後年、この時のことを、大鳥軍負傷兵は生け捕るつもりだった、と回想しているが、そんなことはなかったと思う。
谷守部は、小笠原隊(三番隊)と二川隊(十番隊)を率いて光栄坊を取り囲んだ。
土佐藩隊は鉄砲を乱射し、光栄坊に踏み込んだ。軽傷者三人は危機を察知して逃れたが、重傷者五人は悲惨な殺され方をした。一人は生け捕られたが、後に今市宿で処刑された。土佐藩の記録には「討取五人、生捕一人、今市にて断頭」とある。
この事件について、日光山関係者は、吟味役大塚誠太夫と塚田東作が土佐藩に迎合して密告したためであるとして、この両人を「彼等両人、大逆無道なり、悪(にくむ)べし、悪べし」(「大楽院手替御用日並記写」)と非難しているが、土佐藩の記録にはそのような記載はない。この光栄坊は、五月十三日の暁に、原因不明で焼失した。
【引用前掲書】
「土佐藩の記録にはそのような記載はない。」とあるが、土佐藩としても、いかに戦乱の中とはいえこのような恥ずべき行為には蓋をしたかったに違いない。
現在の光栄坊の跡地にはコンクリート片と思えるものと加工が加えられた自然石が片隅に積み上げられているが、その中には多分、光栄坊のものもあるに違いない。
当時の人々はここで殺された大鳥軍負傷兵をどうしたのだろう?私は寡聞にして彼等の墓を知らない。
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