小杉放菴1・ビ ヨウキアスユケヌ |
小杉放菴は、日光生まれの洋画家・日本画家である。
小杉放菴プロフィール
1881(明治14)栃木~1964(昭和39)新潟
洋画家、日本画家。本名国太郎。最初五百城文哉に師事して洋画を学び、「未醒」号で太平洋画会に出品。この頃から小川芋銭と交遊。渡欧後、再興院展洋画部同人を経て、春陽会創立に参加。この後「放菴」号で日本画を発表。晩年は赤倉の山荘に暮らし、水墨・淡彩による滋味溢れた作品を制作する。帝国美術院会員。享年82歳。
だから、日光には「小杉放菴記念日光美術館」がある。平成九年(1997)10月に開館した。
私は絵画を鑑賞するのは好きだけれど造詣が深いわけではない。
しかし、小杉放菴については日光生まれということもあって、いつか調べてみたいと思っていた。
とりあえず今回が第1回である。
「電報」というものがあって、我が国での歴史は結構古い。明治二年(1869)には東京・横浜間に電信が通じている。
電話の普及によってその需要は少なくなり、ファクシミリ、携帯電話、インターネットのメールが「緊急連絡」における電報の存在を消滅させた。
現在は冠婚葬祭と「笑っていいとも」(笑)だけで使われていると言っても過言ではない。
だが、1960年代に電話が普及するまでは「緊急連絡」の主役だった。
もっとも私の印象では、夜、家族が寝静まったころ、玄関の戸を叩く音とともに「電報です」という郵便局員の声に起こされ、父なり母がそれを読むと「○○キトク(危篤)」という文面が一番多かったような気がするのだ。それは、私が子供であったからそういう印象を受けたのだが、その頃の世の中では頻繁に電報が使われていたに違いない。
小杉放菴も電報を使った。
「使った」と断言してしまったが、証拠がある。
小杉放菴は、晩年、新潟の妙高高原赤倉に居を構え、用があると上京し、また生まれ故郷の日光にも何度か足を運んだ。
日光へは、自分の揮毫する石碑のための打ち合わせなどが多かったようだが、晩年の放菴は老体ということもあって体も病気がちで、予定通りには来晃できない事もあった。その断りの電報が現存する。
日光の旧家に保存されているもので、先代の当主宛てのものである。
この電報以外にも、小杉放菴からの葉書、書簡を多数お借りしてきたので、その方向からも小杉放菴にせまってみたいと思う今日この頃なのだ。
※最後に「今日この頃なのだ」で締め括って、このエントリーを投稿し、いろいろなサイトを覗いていたら、いつも見させてもらっている「きっこのブログ」 さんがいつもこの「今日この頃なのだ」で終っていることに気付いた。
で、これからは言い訳になるのですが、私、別にこの人気ブログのマネッコで書いたのではなく、以前から(「きっこのブログ」の存在を知る前から)「今日この頃なのだ」で終らせているエントリーがいくつかあるんです。ですから、断じてこれはマネッコではないのです。
念の為!
でも、毎日のように「きっこのブログ」覗かせてもらっているせいなのかなァ・・・・・?。