2005年 09月 27日
オランダ灯籠・その1 |
東照宮には三基のオランダ・アムステルダム製の灯籠がある。送られた年度は1636年・1640年・1643年であるが、いずれもオランダ東インド会社(V.O.C)からのものである。
寛永十三年(1636)に贈られた灯籠は、奇しくも寛永の大造替(現在の東照宮)が完成した年と重なる。しかし、これに合わせて贈られたものではなく、まさに「偶然の一致」としか言いようのないタイミングで献上されたようだ。この献上は、ポルトガルとの貿易の利権をめぐる熾烈な競争の中の「ワイロ」のようなもので、そういった意味では徳川幕府の始祖である家康の霊廟の中に飾られることになったのだから、成功したといえるのではないか。現に、1641年、徳川幕府が、ポルトガル人はキリスト教を布教するという理由で、日本への入国を拒否したとき、オランダ人は長崎の出島に移る。これ自体は非常に不便なことではあったが、日本における貿易上の利権を独占するという結果を生んだのだから、「賄賂=献上品」の費用対効果としては抜群のものであった。
さて、肝心の灯籠であるが・・・目立たない。
陽明門の前、左奥にヒッソリと鎮座している。
この項の参考図書である「日光東照宮のオランダ燈籠・Th.H.ルンシング・スヘルレール著」によれば、
『約3世紀半の間、日本人の手で日光に大切に保存されて来た。陽明門のそばにわざわざ八角堂を建て、その中に吊るしてある。堂の屋根は8本の柱に支えられ、柱は堂と青銅で装飾されている。柱の間には鉄の網が張られ、灯架を保護すると同時に、近くから観察できるようになっている』
とあるが、現在は柵で仕切られ遠くからしかその姿を見ることができない。
『各部品に「日本の文字」で印をつけ、日本人でも組立、分解が出来るようにした』
ともある。おそらく、外観からは「日本の文字」は確認できないだろうが、この燈籠をもっと近くで見てみたくなってきた。
ちなみに製作者はヨースト・ヘリッツゾーンである。
寛永十三年(1636)に贈られた灯籠は、奇しくも寛永の大造替(現在の東照宮)が完成した年と重なる。しかし、これに合わせて贈られたものではなく、まさに「偶然の一致」としか言いようのないタイミングで献上されたようだ。この献上は、ポルトガルとの貿易の利権をめぐる熾烈な競争の中の「ワイロ」のようなもので、そういった意味では徳川幕府の始祖である家康の霊廟の中に飾られることになったのだから、成功したといえるのではないか。現に、1641年、徳川幕府が、ポルトガル人はキリスト教を布教するという理由で、日本への入国を拒否したとき、オランダ人は長崎の出島に移る。これ自体は非常に不便なことではあったが、日本における貿易上の利権を独占するという結果を生んだのだから、「賄賂=献上品」の費用対効果としては抜群のものであった。
さて、肝心の灯籠であるが・・・目立たない。
陽明門の前、左奥にヒッソリと鎮座している。
この項の参考図書である「日光東照宮のオランダ燈籠・Th.H.ルンシング・スヘルレール著」によれば、
『約3世紀半の間、日本人の手で日光に大切に保存されて来た。陽明門のそばにわざわざ八角堂を建て、その中に吊るしてある。堂の屋根は8本の柱に支えられ、柱は堂と青銅で装飾されている。柱の間には鉄の網が張られ、灯架を保護すると同時に、近くから観察できるようになっている』
とあるが、現在は柵で仕切られ遠くからしかその姿を見ることができない。
『各部品に「日本の文字」で印をつけ、日本人でも組立、分解が出来るようにした』
ともある。おそらく、外観からは「日本の文字」は確認できないだろうが、この燈籠をもっと近くで見てみたくなってきた。
ちなみに製作者はヨースト・ヘリッツゾーンである。
by nikko0427
| 2005-09-27 05:10
| 日光の薀蓄