2005年 09月 13日
一本灯篭 |
比叡山麓の洛北に「修学院離宮」があります。
明暦元年(1655)から万治二年(1659)にかけて、後水尾院によって造営されたものなのですが、もちろん、費用は徳川幕府が負担しました。後水尾院はこの「修学院離宮」の構想を寛永十八年(1641)から始め、十四年の歳月を場所の選定などに費やしました。この後水尾院は、東照宮では、石鳥居や陽明門の「勅額」の筆者として知られていますが、この後水尾院に間接的に関わりのあるものがもう一つ。
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この時期、幕府は天皇家に対して高圧的な態度に出ることが多く、禁中並諸公家法度、紫衣事件など天皇家の締め付けにやっきになっていました。
その中でも、後水尾天皇にとって屈辱的だったと思えるのが、徳川秀忠と於江与(淀君の妹)との五女和子(まさこ)の入内 です。公武和合を目指す幕府と、それに反抗する後水尾天皇の熾烈な暗闘があったようです。
結局、元和六年(1620)、和子は十三歳で入内し、後水尾の中宮になるのですが、政略的な結びつきにもかかわらず、仲は良かったようで、譲位するまでの六年の間に子を四人生んでいます。
その、東福門院和子の奉納した灯籠が東照宮の境内にあります。
灯籠の奉納は普通一対(2本)であることが多いのですが、東照宮の境内では唯一、一本だけの奉納です。
唐門の東側、柵に囲われた中に、その一件があります。
笠のところにある紋様やその他の意匠も、私には修験道もしくは密教に関係のあるものに思えてならないのですが、ご存知の方がいらしたら教えてください。
日光社寺案内
明暦元年(1655)から万治二年(1659)にかけて、後水尾院によって造営されたものなのですが、もちろん、費用は徳川幕府が負担しました。後水尾院はこの「修学院離宮」の構想を寛永十八年(1641)から始め、十四年の歳月を場所の選定などに費やしました。この後水尾院は、東照宮では、石鳥居や陽明門の「勅額」の筆者として知られていますが、この後水尾院に間接的に関わりのあるものがもう一つ。
この時期、幕府は天皇家に対して高圧的な態度に出ることが多く、禁中並諸公家法度、紫衣事件など天皇家の締め付けにやっきになっていました。
その中でも、後水尾天皇にとって屈辱的だったと思えるのが、徳川秀忠と於江与(淀君の妹)との五女和子(まさこ)の入内 です。公武和合を目指す幕府と、それに反抗する後水尾天皇の熾烈な暗闘があったようです。
結局、元和六年(1620)、和子は十三歳で入内し、後水尾の中宮になるのですが、政略的な結びつきにもかかわらず、仲は良かったようで、譲位するまでの六年の間に子を四人生んでいます。
その、東福門院和子の奉納した灯籠が東照宮の境内にあります。
灯籠の奉納は普通一対(2本)であることが多いのですが、東照宮の境内では唯一、一本だけの奉納です。
唐門の東側、柵に囲われた中に、その一件があります。
笠のところにある紋様やその他の意匠も、私には修験道もしくは密教に関係のあるものに思えてならないのですが、ご存知の方がいらしたら教えてください。
日光社寺案内
by nikko0427
| 2005-09-13 15:49
| 日光あれこれ