会津5 |
在京六年、業火のなかにいるような日々だった。
当初、浪士結社の新撰組が、この藩の傘下に入った。
新撰組と会津藩との関係は戦国時代の”陣借り”という慣習を思わせる。合戦のとき浪人が思わしい大名の陣屋のすみを借り、武功の次第では取りたててもらうことを期待するのである。
ただし新撰組の場合は、幕府が会津藩にあずけた、という形をとった。
結局、新撰組は、治安行動の爪牙となり、倒幕家たちのうらみを会津藩に集中させることになった。
・・・【この国のかたち】司馬遼太郎
はじめ、会津は薩摩と手を結び、文久三年(1863)、三条実美ら長州系の過激公家を追い出したり【禁門ノ変】、元治元年(1864)には、長州藩大挙武装入洛をともにこれを防いだ【蛤御門ノ変】。
ところが、坂本龍馬・中岡慎太郎の画策により、薩摩は長州と密かに手を結んだ【薩長同盟】。 第十五代将軍慶喜は、慶応三年(1867)、大政奉還によって政権を朝廷に返し、京から大阪に退く。 大阪で、慶喜の護衛に当っていた会津藩兵は、鳥羽伏見の戦いで敗北する。
この戦いは局地戦にすぎなかった。旧幕府はなお強大な勢力を擁していたから、戦おうと思えばどのようにも戦えた。
が、薩摩藩はこの小さな戦勝を、四方に大きく喧伝し、このため近畿とその西の諸藩はあわただしく旗幟を新政府側に変えた。
慶喜自身までが、この小さな敗北によってみずからを変えた。
かれは、心のなかで、旧幕府も会津藩も捨てた。夜陰、容保ら数人をつれて大阪湾の旧幕軍艦に乗り、江戸にむかった。その艦上で、老中の板倉勝静が、たかが鳥羽・伏見で敗けたぐらいで、どうしてあわただしくお逃げ遊ばします、と不満をもらしたとき、
「わが方に、薩摩の西郷・大久保のごとき者がいるか」
と政略で敗けた旨のことをいった。
この時からの慶喜の政略主題は、後世に”賊名”を残さないという一点にしぼられるようになった。(中略)
かれは江戸城にもどると恭順を標榜しただけではなく、ついに勝海舟に全権をあたえて江戸を開城し、みずからは実家の水戸に退隠した。旧幕府組織は、海舟の表現を借りると、シツケ糸を抜いたように解体された。
・・・引用前掲書