2005年 06月 15日
天王祭 |
七月中旬、京都では日本三大祭の一つ「祇園祭」が繰り広げられる。
ピークは17日に行われる「山鉾巡行」である。長刀鉾を先頭に三十二基の山と鉾が京都の市街を巡行する。
この京都八坂神社の祇園祭をルーツとするのが、今日、松原町で行われる「お天王様」なのである。
八坂神社の創建は平城京の時代、平安京への遷都150年前の斎明天皇の2年(西暦656年)と伝えられていて極めて古く、従って、創建の理由は定かではありませんが、八坂神社はスサノオノミコトの御神霊を迎え、創建当時は祇園社とか祇園感神院とか呼ばれ、古くから深い信仰を集めていたようです。
また、八坂神社は、平安時代以来、神仏習合の形で午頭天王ゴズテンノウをお祀りしており、平安時代の中期、京の都を中心にして疫病が流行り、疫病の流行は御祭神であるスサノオノミコトの祟りであると云うことでその祟りを鎮めるために、スサノオノミコトとゴズテンノウを習合させて、庶民の信仰を深めて行ったとも伝えられております。ゴズテンノウは播磨國風土記逸文に記載された蘇民将来の説話によって、スサノオノミコトのことであるとも云われ、以後、八坂神社は祇園神、無病息災の神として厚い信仰を集め、祇園さんとして親しまれて、現在に至っておりおります。
牛頭天王の祭だから天王祭なのである。
牛頭天王については、
午頭天王ゴズテンノウは中国の天刑星の属性を持つすべてを支配する神と云われ、暦の上でも吉方、凶方を司り、疫病が流行るのは疫神のしわざ、この疫神を喰ってしまうのが、午頭天王であると云う根強い信仰が残っていて、陰陽五行思想、陰陽道、それに基づく道教と我が国古来の信仰の神道とが結びついて、午頭天王の信仰が根付いていると説明されています。
日光は勝道上人以来、神と仏の霊域として発展してきた。その過程で、首都であった京都の情報が僧侶等によって運ばれてきたことは想像に難くない。なにしろ、承応三年(1654)には守澄法親王(後水尾天皇第三皇子)が、これはもちろん京都から来て門跡となり、それ以後も門跡は京都から来た法親王が輪王寺宮を継いでいったのだ。門跡制度が布かれる以前でも、浄土真宗以外の仏教は世襲制ではなく、僧侶の補充は京都から、というケースが多かったのではないか。
だから、八坂神社を勧請し、天王祭が始まったのは、日光においては他の地域より早かった、という可能性もある。
ともかく、これからジトジトと雨の降り続く梅雨の時期、牛頭天王様の御利益を期待したい。
来月、京都の祇園祭にお出かけになる方は、このサイトでお勉強。
左:松原町・八坂神社入り口
中:神社に続く石段
右:八坂神社 画像提供 Ichiro
※右の画像を八坂神社としましたが、実を言うと、もっと立派な祠があったのですが崖崩れのために消失してしまい、現在は画像のような小さな祠になってしまったというのが真相のようです。
※カーソルを置いて、クリックすると画像が拡大します。
左:履き慣れない草鞋(ワラジ)、大丈夫だろうか?
中:午後4時松原町会所前で気勢を上げる。
左:東武日光駅前
取材協力 松原町
日光社寺案内
ピークは17日に行われる「山鉾巡行」である。長刀鉾を先頭に三十二基の山と鉾が京都の市街を巡行する。
この京都八坂神社の祇園祭をルーツとするのが、今日、松原町で行われる「お天王様」なのである。
八坂神社の創建は平城京の時代、平安京への遷都150年前の斎明天皇の2年(西暦656年)と伝えられていて極めて古く、従って、創建の理由は定かではありませんが、八坂神社はスサノオノミコトの御神霊を迎え、創建当時は祇園社とか祇園感神院とか呼ばれ、古くから深い信仰を集めていたようです。
また、八坂神社は、平安時代以来、神仏習合の形で午頭天王ゴズテンノウをお祀りしており、平安時代の中期、京の都を中心にして疫病が流行り、疫病の流行は御祭神であるスサノオノミコトの祟りであると云うことでその祟りを鎮めるために、スサノオノミコトとゴズテンノウを習合させて、庶民の信仰を深めて行ったとも伝えられております。ゴズテンノウは播磨國風土記逸文に記載された蘇民将来の説話によって、スサノオノミコトのことであるとも云われ、以後、八坂神社は祇園神、無病息災の神として厚い信仰を集め、祇園さんとして親しまれて、現在に至っておりおります。
牛頭天王の祭だから天王祭なのである。
牛頭天王については、
午頭天王ゴズテンノウは中国の天刑星の属性を持つすべてを支配する神と云われ、暦の上でも吉方、凶方を司り、疫病が流行るのは疫神のしわざ、この疫神を喰ってしまうのが、午頭天王であると云う根強い信仰が残っていて、陰陽五行思想、陰陽道、それに基づく道教と我が国古来の信仰の神道とが結びついて、午頭天王の信仰が根付いていると説明されています。
日光は勝道上人以来、神と仏の霊域として発展してきた。その過程で、首都であった京都の情報が僧侶等によって運ばれてきたことは想像に難くない。なにしろ、承応三年(1654)には守澄法親王(後水尾天皇第三皇子)が、これはもちろん京都から来て門跡となり、それ以後も門跡は京都から来た法親王が輪王寺宮を継いでいったのだ。門跡制度が布かれる以前でも、浄土真宗以外の仏教は世襲制ではなく、僧侶の補充は京都から、というケースが多かったのではないか。
だから、八坂神社を勧請し、天王祭が始まったのは、日光においては他の地域より早かった、という可能性もある。
ともかく、これからジトジトと雨の降り続く梅雨の時期、牛頭天王様の御利益を期待したい。
来月、京都の祇園祭にお出かけになる方は、このサイトでお勉強。
左:松原町・八坂神社入り口
中:神社に続く石段
右:八坂神社 画像提供 Ichiro
※右の画像を八坂神社としましたが、実を言うと、もっと立派な祠があったのですが崖崩れのために消失してしまい、現在は画像のような小さな祠になってしまったというのが真相のようです。
※カーソルを置いて、クリックすると画像が拡大します。
左:履き慣れない草鞋(ワラジ)、大丈夫だろうか?
中:午後4時松原町会所前で気勢を上げる。
左:東武日光駅前
取材協力 松原町
日光社寺案内
by nikko0427
| 2005-06-15 07:54
| 日光の祭