2005年 04月 22日
公海と晃海 |
以前から、気になって仕方が無いことがある。
それは、憾満ヶ淵に纏わる人名についてである。
現在、日光観光協会のホームページには、「憾満ヶ淵」の項で慈雲寺の開基や、現在は明治三十五年の台風で流されてしまった不動明王も「晃海僧正」の手によるものだと紹介している。
もっと極端なサイトだと「日光山門跡晃海」と紹介されている例もある。
しかし、私の手持ちの参考書でもある「日光史」「日光市史」「日光の故実と伝説」には、すべて「晃山第五十四世の座主公海」と記述されている。
これは、一体どうしたことなのだろう?
「公海」と「晃海」は同一人物なのだろうか?
だが、公海は実在の人物に間違いなかろうし、実は晃海も実在した。
公海は、天海の弟子にあたる人物だが、天海の四大弟子というのがある。
公海 ・盛憲 ・晃海 ・豪俔 である。
つまり、同時代に同門でほぼ同格な人物として、公海と晃海は存在するのだ。
しかし、座主となったのは、公海のほうである。
いつ、公海と記述されていたものが、晃海とされるようになったのだろう?なにか、決定的な根拠があってのことだろうか?
このことを、ご存知の方がおりましたら、書込み、メール等でお教え願えればと、切に願うものであります。
ただ、私としては今のところ「公海」が正解だと、思ってはいるのですが・・・。
※カーソルを置いて、クリックすると画像が拡大します。
憾満ヶ淵
それは、憾満ヶ淵に纏わる人名についてである。
現在、日光観光協会のホームページには、「憾満ヶ淵」の項で慈雲寺の開基や、現在は明治三十五年の台風で流されてしまった不動明王も「晃海僧正」の手によるものだと紹介している。
もっと極端なサイトだと「日光山門跡晃海」と紹介されている例もある。
しかし、私の手持ちの参考書でもある「日光史」「日光市史」「日光の故実と伝説」には、すべて「晃山第五十四世の座主公海」と記述されている。
これは、一体どうしたことなのだろう?
「公海」と「晃海」は同一人物なのだろうか?
だが、公海は実在の人物に間違いなかろうし、実は晃海も実在した。
公海は、天海の弟子にあたる人物だが、天海の四大弟子というのがある。
つまり、同時代に同門でほぼ同格な人物として、公海と晃海は存在するのだ。
しかし、座主となったのは、公海のほうである。
いつ、公海と記述されていたものが、晃海とされるようになったのだろう?なにか、決定的な根拠があってのことだろうか?
このことを、ご存知の方がおりましたら、書込み、メール等でお教え願えればと、切に願うものであります。
ただ、私としては今のところ「公海」が正解だと、思ってはいるのですが・・・。
※カーソルを置いて、クリックすると画像が拡大します。
憾満ヶ淵
by nikko0427
| 2005-04-22 07:00
| 日光あれこれ