2005年 01月 20日
路面電車・日光軌道3 |
花石町付近。左の画像はむーさんの鉄道風景より。
明治四十一年(1908)に始まった日光軌道の工事は、ドイツのシーメンス社が請け負い、日光電気軌道株式会社の名の元で行われた。
それ以前、明治二十六年(1893)に、古河鉱業会社は輸送力の増強を計り、細尾・日光駅間に軌道を敷設して牛車を運行した。牛車軌道の開通によって、古河鉱業の細尾・日光駅間の駄馬輸送は廃止されたが、民間の日用品は駄馬の背で運ばれた。ただ、日光線(鉄道)を利用した観光客も増えてくると、牛や馬の糞が道路を不潔にするということで、日光町民の批判も多くなっていた。
そんなおりの、電気軌道工事だったが、来晃する観光客を相手にする人力車夫はもちろん、仕事を奪われる牛車軌道の労働者の反対は当然、予想された。
軌道電車は、第八代日光町長の西山真平さんが、初代日光精銅所長の山口喜三郎さんと相談して設立に努めたのですが、私の父も西山さんに従って日光に来た関係上、設立当初から軌道会社の事務いっさいをあつかっていました。しかし、当初は日光に四、五百台あった人力車の組合が、「営業を圧迫される」と、軌道敷設に強く反対し、えらい騒ぎだったことを子供心に覚えています。わたしの十歳のころでしたか、人力車組合の人が軌道敷設の関係者やその家族に危害を加えるかもしれないので「夜は外出するな」と父にいわれたものでした。
・・・・・軌道創設者のひとり喜多川広成の三女弓手豊代の談話
(『読売新聞』昭和四十三年二月二十日)
それでは、牛車関係者はどうしたかといえば
『日光避暑地物語 福田和美著』によれば
(日光軌道の一番電車が走った日)文明のシンボルとも言うべき電車を一目見ようと、町民は人垣をつくる。すると車掌の顔に見覚えがある。あれは牛車鉄道の牛ひきたちじゃないか。どうも慣れないせいか制服姿がぎこちないな。そうそう、別の牛ひきはホテルに卸す牛乳屋に商売替えしたそうだ・・・・・。なんとも賑やかな見物人たちに囲まれて、一番電車は走った。
その、牛車軌道関係者の末裔(フードピア日光)を、私は知っている。
そろそろ、創業100周年だぜ、片○君!!
参考文献:「日光市史」「日光避暑地物語 福田和美著」
日光軌道シリーズ
by nikko0427
| 2005-01-20 17:22
| 日光軌道