200年前の歩路句(ブログ)伊勢参り道中日記 3 |
二月七日、栃木宿を出立。
天候は晴れです。
栃木市万町交番前
「伊勢参宮 大神宮にもちょっと寄り」という戯句にもある通り、当時、伊勢参りは、ほぼ口実に近く、どちらかというと「物見遊山」的傾向が強かったということです。
栃木市内例幣使街道
栃木宿を出発した一行も、道を急ぐでもなく、ほど近い太平山に向かいます。
巴波川(うずまがわ)・栃木市内
現在の太平山といえば、「太平山神社」ということになりますが、明治時代の神仏分離以前は、神仏混交の場所で、平松さん一行が向かった「天台宗蓮祥院」①も神社がある山頂にあったのです。
太平山神社
この蓮祥院は、現在、参道の麓というべき場所にあり、明治時代に建立された六角堂が異彩を放っています。
現在の蓮祥院六角堂
この太平山山頂は、展望が良く、この日は今でいう3月の晴れた日でしたから、日光連山や富士山も見えたのではないでしょうか。
この日(1日)は晴れてはいたけれど雲がかかって富士山は見えませんでした。
気になるのは、青線部分で「辰巳の方向」と書いています。ただ、哀しいことに、その後が私には解読不能。南東方向に何があったのか・・・?「堂」という字だけ判りますが、あとは判読出来ませぬ。
一行は太平山を後にして、岩舟方面に足を運びます。
この場所②は、この「道中日記」を目にするまで、その存在さえ知らなかったのですが、一行は岩舟の「光勝寺」=「高勝寺」という寺を訪れます。この道中日記を書いた平松さん、故意なのか、うっかりしているのか判りませんが、書き間違いが頻繁にあります。
岩船山 高勝寺は天台宗のお寺で、その名の通り岩船山の頂上付近にあります。
岩舟採石場跡
私は、この高勝寺まで、急坂を車で上りましたが、平松さん一行は約600段の石段を息を切らしながら歩いたと思われます。
それとも、下の地図をクリックして拡大すると、右の方に「岩船山 裏参道」という文字が見え、この道がこの時代に存在したとすれば、栃木方面から来た平松さん一行はこの参道を選んだ可能性があります。
高勝寺HPより
この高勝寺、当時は名立たる名所だったようです。
高勝寺本堂
高勝寺境内
高照寺を参拝した一行は、この日の宿泊地・佐野宿に入ります。
佐野宿・天明町付近
どうやらというか、間違いなく平松さんは「松尾芭蕉」ファンのようです。
芭蕉の句碑があれば、必ず立ち寄り、その句を日記に書き留めています。
この佐野宿にも、芭蕉句碑があり、残念ながらここも読み取りが難しい。「本泰寺」とあるような気がするのですが・・・。
実は平松さんが見た句碑は現存しており、県立佐野女子高校改め佐野東高校の正門の中にあります。因みに、佐野女子高校は一昨年、佐野東高校(男女共学)として開校しました。
事前に電話をし、句碑を見たい旨を高校の事務室に断りを入れ、高校に着く直前にも連絡をして、やっと件の句碑に辿り着いたのでした。
上の画像が芭蕉の句の部分ですが、どういう句かというと・・・・。
ほととぎす鳴くや五尺のあやめ草
そして、裏側に回ってみると・・・。
宝暦六丙子 冬十日とあります。
ここで賢明な(笑)私は気が付きました。
宝暦六年(1756)は、この日記が書かれたちょうど60年前。
つまり、平松さんがこの句碑を見たときは、この石に芭蕉の句が刻まれてからまさに還暦を迎えた年だったのです。
先に書いたようにこの句碑は、現在、佐野東高校の正門の中にあります。しかし、平松さんがこの句碑を見たのはこの場所ではありませんでした。
現在は「金成院(こんじょういん)」と呼ばれるお寺の境内にあったようです。
金成院本堂
この金成院は真言宗豊山派の寺で、佐野市久保町という所にあります。
そして、この金成院という寺名は、明治41年、金胎寺・成就院・光明寺が合寺して成立したものだそうです。
この境内に昔は「あやめ池」があり、その畔にこの句碑があったのです。
金胎寺(こんたいじ)・・・・本泰寺(ほんたいじ)
平松さんが誤記しそうな気配がしませんか(笑)。
この日は四里ほどの行程でした。
本当にユックリですね。