久能山東照宮 |
巣雲山駐車場より
毎年、5月18日と10月17日に開催される日光東照宮の「百物揃え千人武者行列」・・・これは、家康公が最初に葬られた久能山東照宮と深い関わりがある。
元和二年(1616)4月17日、家康公は駿府城で生涯を閉じる。
そして、その日のうちに駿府城から久能山に御遺骸は移され、19日は仮殿が竣工し、遷座の式が行なわれた。→もうチョット詳しい記事
そして、翌 元和三年(1617)、家康公の遺命「日光山に小さき堂をたて、勧請し候らへ、八州の鎮守にならせらるべき」を受けて、遷霊が行なわれた。→もうチョット詳しい記事
さて、その久能山東照宮だが、先日、訪れた。
石段を、1159段登らなければならない。イヤ、私は大丈夫、チタケ採りで鍛えてますから。ただ、連れの顔が引き攣った(笑)。
ロープウェイで東照宮へ登っていくものと思っていたら、降りていくのね(笑)。
【久能山東照宮のHPから】
家康公は天文11年(1542)12月26日三河国岡崎城(愛知県岡崎市)にて生まれましたが 当時はいわゆる戦国時代。このときに一小国より興りあらゆる困難にも打ち勝ち遂に天下を 統一し、乱世に秩序を与えて産業を興し学問を広め平和と文化の基礎を確立し近世日本の 発展に偉大な功績をのこされた。晩年は駿府城に在ったが元和2年(1616)4月17日75歳で 薨去、御遺命により当山に葬り、従来山上に在った久能城を廃止すると同時に2代将軍 秀忠公の命により宰相頼将卿(後の紀州家の祖頼宣卿)が総奉行となり中井大和守正清を 大工棟梁として元和2年5月着工。同3年12月に至る僅か1年7ヶ月と云う短期間に造営された のが現在の建物である。
元和3年12月21日、勅使万里小路孝房卿以下参向。東照大権現の 神号を賜り又同年3月9日にも勅使中御門中納言尚長参向。正一位御追贈の宣下があった。 社名は初め東照社と称したが正保2年11月3日宮号の宣下があり以来東照宮と称するに至った。
後明治維新の際旧来の制度は全く廃止されると共に神仏混淆の禁止に依り仏式に関する一切の 建物器具等廃棄された。明治6年2月18日県社に、同21年5月1日別格官幣社に各々列せられたが 昭和21年2月2日官制廃止により社格は除去され同時に旧来の社号を改め久能山東照宮と称する ことになった。尚、神廟・社殿・神庫・神楽殿・鼓楼・其他の諸建物は重要文化財に又久能山全域も 国より史蹟として指定されている。
唐門
御廟所
この五重塔は、明治六年(1873)、神仏分離令により取り壊されたのだそうだ。華麗な五重塔だったようだが、なんとも惜しい。
日光東照宮に五重塔が残されたのは、破格の運の良さと言える。
そして、もうひとつ、「鼓楼」である。チョット違和感を覚えた。というのは、久能山の「鼓楼」は社殿に向かって右側にある。日光東照宮とは左右が逆なのだ。日光東照宮は右に「鐘楼」、左に「鼓楼」なのだ。もっとも、久能山は「鼓楼」だけで「鐘楼」が左にあるわけではない。しかし、調べて見ると(ネットを見ただけですが)、これは、やはり神仏分離令の影響らしい。
つまり、最初は「鐘楼」だったものが、神仏分離の際、鐘は仏教色が強いということで無理矢理「鼓楼」にしたということだ。太鼓は、明治六年、旧幕臣の小島勝直氏奉納と、久能山東照宮のHPの説明文にある。
さて、拝殿正面真ん中の蛙股(かえるまた)には「司馬温公しばおんこう)甕(かめ)割りの図」がある。
これは司馬温公が子供時代、友達達と遊んでいたところ、その中の一人が甕の中に落ちてしまった。
その当時甕も貴重なものであるし、水も大事なものである。
しかし、司馬温公は「人の命には代えられぬ」と、傍らにあった石を手に取り、甕を割って溺れかけていた友達を助け出したという話である。
「それがどうした?」というツッコミがあるだろうが、この「司馬温公の甕割り」が日光の東照宮にもあるのだ。日光東照宮は陽明門だが・・。
甕の左側にいるのが司馬温公で右手に石を持っている・・というふうに見える。
実はそのこと(石を手に持っているらしいということ)気付いたのは今回が初めて。
ただ、久能山は三人で、日光は五人(笑)。
この時代、日本の国学は「儒教」としたことで、両東照宮には中国の儒教にまつわる彫刻が多いのだが、そのことを指摘した人は少ない。どうしても、日本神道への傾斜を主張したいらしい。私自身は「儒教のミュージアム」という認識でいるが・・・。
いずれにしても、今度はあの1159段(”イチイチゴク”ろーさん「いちいち御苦労さん」と覚えるらしい)の石段を登ってみたいなと思う。