はせを(芭蕉)が漂ふ下野路 8 |
四月九日、この日も雨だった。しかし、芭蕉は修験光明寺に招かれて赴く、とある。
この時の光明寺の住職は第七代権大僧都津田源光で、その妻は浄法寺図書の妹である・・・・という説明は、判り易いのだが、チョット待て・・・・この時代、浄土真宗以外の僧侶が妻帯出来たのか?という問題がある。
そこで、調べてみると、「真宗、修験道では肉食・妻帯を早くから認めている」のだそうだ・・・納得!
それにしても、城代家老の縁者を娶れるのだから、修験者の社会的地位は高かったのかもしれない。
その津田源光に招かれた芭蕉は、昼頃から午後9時頃まで過ごした。
修験光明寺と云有。そこにまねかれて行者堂を拝す。
夏山に足駄を拝む首途哉(なつやまに あしだをおがむ かどでかな)
「夏山に~」の句碑。
光明寺の行者堂には「役の行者」の一本足の高足駄が安置されていたという。その下駄を拝むことで、これから先の長い旅の無事を祈った・・・ということなのだろう。
明治の廃仏毀釈以来、廃寺となり、現在は上の句碑を残すのみ。
翠桃邸はすぐ近くにあるのに、何故かこの日も桃雪邸に帰る。