小杉放菴2・日光全圖 |
4月に行われる弥生祭の家体献備と二荒山神社。
(画像提供:二荒山神社)
小杉放菴は明治十四年(1881)、日光二荒山神社の神官の家に6人兄弟の末弟として生まれた。幼名は国太郎。
当時、日光に住んでいた洋画家の五百城文哉(いおきぶんさい)に師事し絵を学ぶ。
↑ というふうに小杉放菴の略歴を長々と書こうと思ったらいいサイトが見つかりました。
「小杉放菴記念日光美術館」の中にありました。→これ
「小杉放菴・・・・・その生涯と画業」をご覧下さい。克明に書いてある。
その中に、放菴が若い頃は外国人相手に「おみやげ絵」を描いて生計の足しにしていたということが書いてある。
なぜかというと、署名が「小杉放庵」となっている。
「菴」ではなく「庵」なのです。
小杉未醒(みせい)が「放庵」になったのは昭和初期だったらしい。そして昭和10年頃に「放菴」になる。
だから、この日光全圖は放菴が画家としての名声を得た後に描かれたもので、糊口を凌ぐためのものではなく、昭和初期から昭和10年までの間に、故郷の日光町(このころはまだ市ではない)への奉仕のつもりで描いたものということがわかる。
日光町観光課版とあるのは、観光客にこれを配ったのだろうが、今、考えると非常に贅沢なパンフレットだということだ。
この際、合併記念にこの「日光全圖」の復刻版を作り、来晃する観光客に皆さんにお配りしたらどうだろう?無料が無理なら廉価でということで・・・。日光を代表する画家・小杉放菴を世に広く知らしめることにもなるし、日光連山まで詳しく描かれていて、今までこれを越えるパンフレットは存在しないとも思う。
いかがでしょうか?新日光市観光協会殿。