会津7 |
話をちょっとだけ戻す。
罷免されていた西郷頼母は、戊辰戦争の時に復帰した。白河口総督として「官軍」と戦うが、時代の波が押し寄せてきていることを悟った頼母は講和を進言する。しかし、それは容れられず、かえって抗戦派からは命まで付け狙われる結果を招いた。そうしたなかで、ついに鶴ヶ城は落城、会津藩は降伏する。
落城直前、容保の命で城外にいた頼母は、大鳥圭介らと合流し函館に向かう。
この間、頼母の一族二十一人が、足手まといになることを怖れて自宅で全員自決。このなかには幼児もふくまれていた。特に、頼母長女の細布子が自決の際、急所をそれて苦しむ中なか、踏み込んできた新政府軍に「敵か味方か」と尋ねながら介錯を頼むという逸話が残っている。
五稜郭の陥落後、館林藩に幽閉され処断の時を待つが、不運(?)なことに五稜郭降伏と同日の明治二年(1869)5月18日、会津藩家老萱野権兵衛が会津藩の戊辰戦争の全責任を受けて切腹し、頼母は放免されてしまう。
その後、東京深川で弟の陽次郎とともに暮らしはじめるが、その陽次郎も雲井龍雄事件に連座して獄死してしまう。
明治四年(1871)、伊豆松崎の謹申学舎塾長を務め、三年後には現在の福島県棚倉町にある都々古別(ツツコワケ)神社の宮司に任官する。しかし、西郷隆盛と親交のあった頼母は、西南戦争の余波で宮司を解任される。追い討ちをかけるように、実子吉十郎が病死。
※棚倉にはもう一社「都々古別神社」があります。
一方、容保は因幡鳥取藩邸に禁固となり、その後、子の喜徳とともに死一等を減じられて永禁固となる。
明治二年(1869)、家名再興を許され、後継には容大(かたはる)を奏請する。
容保は和歌山藩預かりになるが、翌年(明治三年)、斗南藩に喜徳とともに預かりとなる。
明治五年、お預り解除。
いよいよ、明日は日光に行き着きます。