路面電車・日光軌道11 |
大正二年(1913)、大正天皇御夫妻が、日光電気精銅所を御訪問になったのをきっかけに「和楽踊り」が始まる。
日光の故実と伝説より
所長鈴木は、両陛下行幸啓の光栄と感激を永久に何らかの方法で遺したいと、経理課長の佐竹房夫に相談した。ところが、両人とも期せずして盆踊りがよかろうと意見が一致した。
ところが、これが実施に当たり一大難関にぶつかった。
それは、盆踊りは古い歴史を持って全国に行われて来たが、一面、風俗を害し、社会の秩序を乱すものとして、内務省は禁止の方針であり、栃木県は厳重に取り締まっていた。
そういう空気のなかに、精銅所長は大正三年、両陛下行幸啓一周年記念祝賀行事として、盆踊り実施を知事に出願した。果して、一言のもとに「相成らぬ」の厳達。再三再四、願い出ても「相成らぬ」の一点張り、信念に満ちていた鈴木所長は、直接、知事岡田文治に面会し、「精銅所の名誉にかけても、模範的な健全娯楽にしてみせる」と、次の条件つきで許可をとった。
一、歌詞は卑俗なものを歌わせない。(これが毎年従業員から歌を募集するもととなった)高尚優雅なものにする。
二、風俗を乱さないように明るくする。(これが電飾のもと。電気はお手のもの)
三、時間は夜の十二時でピッタリとやめる。
四、服装を一定し、風俗を乱すような支度のものは場外に突き出す。
五、踊りの種類は次の三つ
1.石投げ踊り(これは足尾銅山撰鉱婦の操業振りを舞踊化したもの)
2.手踊り。普通の盆踊り
3.笠踊り。手踊りに笠を持たせて、さらに優美化したもの。
名称も、盆踊りではなく、佐竹課長の発案で「和楽踊」とし、知事との公約を徹底的に実行して、今日の名物和楽踊りが完成した。
(中略)
この和楽踊も何年かの後には、「故実」となるだろう。
私が子供の頃、夏になるとこの「和楽踊り」をなにより楽しみにしていた。日光市外の人達も、3日間に渡って行われた「和楽踊り」に大挙して押し寄せたものだ。昭和の「エレクトリカルパレード」がそこにあった。
しかし、1983年、福井に古河アルミ工場が新設されると、従業員もそちらに移住を開始し、日光の人口は減少の一途を辿る。
まだ、「和楽踊り」は続いているようだが、あの時代に較べれば随分と寂しいものだそうだ。
まだ、精銅所に人が溢れていた頃、日光軌道の駅で乗降客数が一番多かったのが、清滝駅であろう。
しかし、現在は駐車場になってしまっている。
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