寂光3 |
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左:拝殿と本殿(左)
中:輪王寺に残る釘念仏の御札
右:寂光滝
明治の廃仏毀釈がなければ、現在の日本の風景は随分違ったものになっていたに違いない。
この寂光寺も明治になって、若子神社と名を変えてから衰退が始まった。
最上部にある拝殿と本殿を残して、次々と堂宇が消えていった。
ただ、当案内組合の最長老から思いがけない話を聞いた。
この寂光寺のそばを流れる田母沢は、境内のすぐ下流で二俣に分かれ、二つの流れに挟み込まれるように寂光寺跡がある。ところが、左の流れの対岸にも、念仏堂というのがあったというのだ。
この、念仏堂から、信者に授けていたのが釘念仏の札である。
文明年間(1469~1487)、覚源上人という別当が寂光寺にいてよく学を修め、行に励み、仏に仕え、人々の尊信を集めていた。しかし、ある日、仮死状態になり、人々の困惑をよそに十七日間眠り続けた後、静かに目を開き、「私は、この世をお暇(いとま)してあの世に行った。閻魔大王の御殿に着くと大王が私に告げた。『お前はまだここに来るべきではなかった。しかし、せっかく来たのだから、この地獄を見物していけ。娑婆(しゃば)の者たちは心の悪い者が多いとみえ、毎日たくさんこの地獄に来て仕方が無い。それゆえ、地獄をよく見物し、今一度、娑婆に戻り、地獄の有様を話して、決して地獄道に陥らないようにして貰いたい』
それから、私は地獄を見て回りその過酷さ、悲惨さを知った。そして、その道すがら大王が言った。『娑婆の者は欲が深くて困る。それが悪心の元になる。地獄に来るものは、誰でも四十九日の間毎日一本ずつ、その罪の深さに応じて大小 様々な釘を打たれる。しかし、この札をおまえにやるから娑婆の人々に与えよ。そうすれば、釘打の苦痛はよほど軽くなる』」
目を開いた覚源上人は回りの人達に地獄の様子や閻魔大王の話を語り、その手には、四十九個の釘穴のついた御札が握られていた。
こうして、この後は念仏堂から同形の御札を梓の木で刻んで信者に授与するようになった。
しかし、明治時代に、この寂光寺は廃絶。釘念仏の御札も無くなったかといえば、さにあらず、輪王寺本堂の下札所にちゃんと置いてある。
今では、若子神社といわれる拝殿と本殿が最上部に残っているが、その左手を抜けると滝が見えてくる。寂光滝である。七段に分かれて流れ落ちることから「七滝」とも呼ばれた滝で、滝の多い日光でも見応えのある一件である。
参考文献:「日光の故実と伝説」星野理一郎著