2004年 11月 24日
試撃行日譜(高杉晋作が日光へ・・!?) |
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つい、先日まであの幕末の英傑高杉晋作が日光に来たことを知らなかった。高杉は日光に2泊し、寂光滝、裏見滝、華厳滝を見て翌日には東照宮まで見ているのだ。
時は万延元年(1860)のことである。8月28日に晋作は江戸を出発したようだ。それから約50日余り、水戸、日光、浅間の下を通り信州・越後・越中・ 加賀・越前・大津・伏見・大阪・内海沿岸を中国路に辿りながら帰萩した旅を日記形式で文章にしたものが試撃行日譜である。
この日譜によれば、いよいよ9月6日に日光に入る。
六日 晴
発宇津宮駅、老松擁路、自然登高、日光山突出于前面、一歩従一歩近、此日予肩(1字不明)足、頗覚労憊、日暮至日光山下、行人云、日光警衛士山口為之助は好撃剣、他方之人至必而留之試撃、予大喜、忘労憊至此、主人不在、使者云、即今当日光奉行在江戸、故主人務其欠、試撃之事更難、其言語与其応接不遜極矣、予以為、之幕府悪臭不足怒、コラヘ労憊下又ニ三丁計、投旅店、予明朝欲登中善寺、因使賃主案内人、開日光山中善寺全図、欲窮其地形、終宵不眠、待天暁
6日朝、宇都宮を出た晋作は疲労困憊しながらも、日光に辿り着く。日光奉行所にいた山口為之助と試合をする予定だったが、山口の都合が悪く試合は取り止めになった。そして、その取次ぎに来た使者の不遜な態度に腹を立てているが、これも幕府の者ゆえ怒るに足らずとも言っている。
宿の主人に案内人を頼んで翌日は中禅寺に登ろうとした。「日光山中善寺全図」を開いて地形を覚えようとしたところ、結局眠れなくなり一睡もせず、朝を迎える。
七日
早朝案内人来、乃介其人登中善寺、登一里計、至シヤコウ布引瀑。傍有神祠両三、此瀑中善(寺)中景光最下者、取道于左、曲屈攀躋行于深林、又出(空白)山亦行于森林数十丁、有裏見瀑、是日東無二奇瀑、大石突出清流自其間下、行大石下可見瀑裏面、故謂裏見瀑、至瀑、濆、案内人遅々不欲歩大石下、予因謂案内人曰、予至此不能見瀑裏面、則壮士一恥辱、足下不能歩、則我先歩、予即カタメ刀カカケ衣歩先進、案内人亦驚予言、憤発随予来至大石下、佇立下多時、水勢激烈、下十余丈、落地為花、出大石下、亦経岩々渡、面ヌレ衣ウルヲウ、又入深林左折右行殆十余丁、出中禅寺本道、
行少計有橋、々左有瀑二、一日、ハンニヤノ滝、一日ホウトウノ滝、過之少行焉、左折出華厳滝、々々滝如紅花散飛、従山腰見瀑于山下、故水末為樹木所サゝユル、案内人云、紀州奈知瀑、従山下抑見瀑于山上、故水末尽可見、此二瀑素神州不双名瀑、然奈知瀑以見之于山上、先為第一等、自此出中禅寺、有湖水、横竪一里半計、老杉喬樹森鬱擁四面、傍有神祠、茅屋数十、案内人云是神祭之節諸方之人至此、潔菜謁神、予亦謁神祠、向モトノ道下漸至、日暮帰宿
7日朝、宿を出た晋作と案内人は寂光滝に行き、次に裏見滝に行く。裏見滝では落ち来る瀑布に尻込みしてしまった案内人に「ここまできて来て滝の裏側を見ないのは壮士の恥辱である」といって、刀を固定し着物をからげて進んだ。すると案内人もビックリしてあとから付いて来た。
その後、中禅寺本道に出て華厳滝を見、中禅寺湖を見て、宿に帰った。
8日は午前中、東照宮を参拝するのだが、反徳川の晋作は不満たらたらの感想を記している。
ここに出てくる「案内人」は果たして我々の先祖「堂者引き」のことなのだろうか?
晋作が日光に来ていたことを教えてくれたのは、やはり「堂者引き」の末裔「案内組合」の一員である飯○君である。
ありがとう。
※左の画像は裏見滝
by nikko0427
| 2004-11-24 18:30
| 日光のサプライズ!