2004年 11月 22日
西行戻り石 |
西行伝説はあまたにある。
弘法伝説、役行者伝説と並んで全国に膾炙している。
【西行】平安時代末期、鎌倉時代初頭の歌人。魚名流藤原氏、鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)の9代目の子孫で、曾祖父の代から佐藤氏と称した。父は左衛門尉康清、母は監物源清経の娘。俗名を義清(のりきよ)(憲清、則清、範清とも)といい、出家して円位、また西行、大本房、大宝房、大法房と称した。
西行は16歳のころ徳大寺家に仕え、18歳の年に巨額の任料を納めて左兵衛尉に任官した。また鳥羽院の北面の武士(上皇の側近に仕え、身辺の警衛や御幸に供奉(ぐぶ)した地下(じげ)の廷臣や衛府(えふ)の官人)となり、和歌にすぐれ故実に通じた人物として知られていたが、1140年(保延6年)23歳の若さで出家して人々を驚かせた。出家の理由は、種々推測されているが明らかではない。
出家後は洛外に草庵を結んで修行につとめ、一品経(いっぽんきょう)を勧進して藤原頼長を訪ねたりしたが、1144年(天養1年)ころ陸奥、出羽に旅して歌枕を訪ね、1149年(久安5年)前後には高野山に隠筒してしばしば吉野山に入った。
その間和歌に精進し、1151年(仁平1年)には《詞花和歌集》に1首入集、多くの歌人と交わったが、崇徳院、徳大寺実能、同公能、藤原成通らの死によって、しだいに公家社会から遠ざかった。
1168年(仁安3年)には四国へ修行の旅に出、讃岐国の崇徳院の白峰陵にもうでて院の怨霊を鎮め、さらに弘法大師の旧跡を訪ねた。その後、高野山の蓮花乗院を造営するための勧進を行い、同院の長日談義をはじめるなど、高野山の興隆のために活動した。
1180年(治承4年)には伊勢国に赴き、二見浦に草庵を結んで、和歌を通じて祀官の荒木田氏などと交わった。
1186年(文治2年)、伊勢を出て東大寺再建の勧進のために再び陸奥に赴いたが、その途中鎌倉で源頼朝に会い、弓馬のことを談じ和歌についても語った。
陸奥の旅から帰った西行は、京都の嵯峨に住み、1188年に成立した《千載和歌集》には18首が選ばれて、歌人として重んぜられるようになったが、1189年、河内国の弘川寺に居を定め、翌1190年(建久1年)の2月16日、弘川寺で73歳の生涯を閉じた。
その西行が日光に来た(ということになっている)。
時は文治2年(1186)から同3年の間である。西行が69歳~70歳の時。奥州の藤原氏の許へ、大仏再建の基金募集のために下った折のことである。
稲荷町の稲荷神社の境内に「西行戻り石」というのがある。
現在はどうか知らぬが、この辺りの地名を「西行戻し」といって土地台帳にも記載されていたそうな。
子供が背負籠を負い、鎌を持って この石の上で休んでいた。すると一人の旅僧(西行)が来て
「小僧、小僧どこへ行く」
と聞いた。
小僧は
「冬萠(ほ)きて 夏枯れ草を刈りにゆく」(麦刈りのこと)
と、答えた。
西行は「なかなか、手強い所だ。このへんでの歌くらべは難しい」と感じ、ここから遥かに二荒山(男体山)を遥拝して帰った。
昭和32年、日光出身の画家小杉放菴氏と星野理一郎氏が稲荷神社の裏手に草深く隠れていた大石を、稲荷神社氏子一同の協力を得て、社頭に移動し、放菴画伯の揮毫で傍らに歌碑を建てた。
ながむながむ散りなむことを君も思へ
黒髪山に花さきにけり
※黒髪山=男体山
この歌は「聞書集」の「老人花を見る」という題のもとにあるもの。
惜しむらくは、この石、年月と共に忘れられていきそうなのである。
参考文献:「日光の故実と伝説」星野理一郎著
by nikko0427
| 2004-11-22 17:09
| 日光あれこれ