2004年 09月 27日
板垣退助 |
明治元年4月下旬、上野彰義隊の脱兵は会津藩士と連合して、日光に集まり、祖廟(東照宮)に篭って最後の忠勤を果たそうとした。その数3000人、大鳥圭介が総指揮者となって山内の安居院、○華蔵院、○医王院、養源院、○浄土院、能観坊、光栄坊等(○印現存。養源院は芭蕉が立ち寄ったことで有名だが廃寺)の寺院を宿舎として、立てこもった。
4月26日になると、官軍が大挙して行軍しているとの報を受けた。官軍は前・後軍に分かれ主として土佐の兵が来た。それぞれの将は前軍・祖父江可成、後軍・板垣退助である。
この時の日光は開闢以来の大騒動だったらしい。
東照大権現の御神体を動座させるべく別当職(現在の宮司に近い存在)が御神体を自ら背負って会津へ逃げ出したのもこの時である。
日光は一触即発の危機に曝されたが、大鳥圭介ら幕府軍は日光を出て会津に去り、また輪王寺の僧侶と官軍側との折衝もあり、無事、戦火を免れた。
この時、占領軍の司令官である板垣退助は、陽明門前で拝礼をしたという。ただ、御神体は動座させられていて不在であったことは、板垣は知らず、東照宮側も知らせなかったらしい。
昭和四年(1929)、12月、板垣退助が日光を戦火から救い、日光は世界の日光になることができたとして(日光市史)、銅像が立てられた。
というわけで、今、金谷ホテルへの上り口に日光山の境内を見守るかのような板垣退助の像が立っているのだ。
by nikko0427
| 2004-09-27 14:24
| 日光の薀蓄